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一噌仙幸 の一管を聴いて、、 [音楽など]

先日、東京に出かけた期間中、偶然重なった能の公演にゆきました。

能を鑑賞する機会は少ないのですが、
「松風」はこれまで数回観ているだけなく、特別の思い入れも加わった作品なので楽しみでした。

夢のような時間をすごしました。


一つだけ記しておきたいと思ったのは
狂言の前に聴いた一管の演奏の事です。

一管というとすぐ想起するのは、特徴的な
ピョーッと高く鋭い空気を切り裂くような音です。

その音は、場面や演者の心の内が急展開したり、
こちらの感情の変化が先取りされたかのように響く印象と結びついています。

この日の一管の演奏はそうした派手な音のない、
表面は変化の少ない曲想が流れていました。
その音の流れについて行っていると
人が言葉で区切ったものの、くぎりがひとつひとつ消えてゆくようでした。

今その区切る言葉でぎりぎり表現をするとしたら、
音とこちらの魂が溶け合ったというような体験でした。


ここまで書いたところで、
どういう場面での曲だったのかをプログラムの解説で読みました。

入水して果てた夫、平清経(平重盛の三男)の形見の黒髪を受け取った妻が、
討ち死にや病死ならあきらめられるけれど、と恨みつつ
せめて夢の中ででも姿を見たい
と涙ながらに床につくと、夢枕に清経があらわれるという場面の導入となる曲のようです。

それを知って、あらためてただただ驚きました。

素晴らしい演奏だと思ったのですが、
本当に夢と現、彼岸と此岸の境が消える世界が、
音の響きと共に実現していたのだと思いました。




表参道のイルミネーション.JPG
2011・12・17 表参道




波多野睦美 コンサート [音楽など]

今月の3日、広島、東区民会館でのコンサートに行った。
パーセルの曲を集めてのプログラム。

舞台に現われた波多野睦は白い上下のロングドレス。

“ほら!聴いて!
この世のすべてのものが、ひとつの音を楽しんでいるのを“
とプログラムに自ら訳してのせた歌詞に始まる歌が響きはじめたら
瞬時に舞台に一つの世界が現われて、皆も瞬時に惹き込まれたと感じた。

歌が変わるたびに、映画の画面が変わるよに舞台の世界も変わる。
場面が変わっても、あらたに引き込まれて、夢中に味わった。
歌と歌の間も、聴衆の集中力が途切れる事はなかった。

今プログラムを見直してみると、
意図的に緊密な流れを作るよう構成された2部の舞台だけでなく、
1部も短い1曲1曲が、つながりと流れをもって響きあうようにしっかりと構成されている。

その意味では伴奏の芝崎久美子のチェンバロソロ曲も
そうした大きな構成を損なわないように選曲されていたように思える。

芝崎の伴奏はそぎ落として無駄のない音列で、
背景をしっかり支えていてすばらしいと思った。

1番2番と、繰り返される歌の旋律に、変奏が加わってゆく時、
愛しげな気持がどんどん増してゆくような心のこもった変奏に感動した。
春の野原を歌いながら歩いてくる美しい少女の
周りをぐるりと廻りながら吹いて、時に誘い、
その歌声をさらってどこまでも吹いてゆく風をイメージさせるようだった。


ソリチュードと名うっての、コンサートのプログラム第2部は、
パーセルの、オペラ、ダイドーとエネアスから、ダイドーの悲恋、悲運をテーマに構成されていた。
面白かったのは、その構成で、オペラから直接とったのは3曲だけで、
間は他の愛に関連した、パーセルの曲でつないであった。

これは波多野自身が説明していたが、この時代のオペラの事で、
ダイドーとエネアスの間に、具体的にどういったやり取りがあり心理的な
葛藤や変化があったか、と言った事が全く欠落しているので、
それを埋めるような形で、曲を入れて構成したということのようだ。
こういう時もあったろう、こういう経過もあったろう、といったふうに
愛の歌でつないである。

最後はこのオペラの有名な終曲、女王の死を暗示する
“私が大地によこたえられたとき”という歌でおわった。
女王が「私のことは覚えていて欲しい、
でも自分の悲しい運命の事は皆の心に残らないように、忘れて欲しい、」
という歌詞の中の”remember me”
と繰り返される響きが、静かで深く切実で、今も聞こえる。


アンコールにこたえて、
Fairest Isle (もっとも美しい島)
“ヴィーナスが来てとどまる。不安も悩みも妬みもない、愛に満ちた、、、”
といった意味の、ブリテン島のことを歌ったという歌詞と旋律が流れ始めたら、
ダイドーの切ない死の場面で流れなかった涙が無防備に流れ始めた。

今、ここがその島なのだと感じた。

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